釜ヶ崎ディアコニアセンター 喜望の家 これまでの足跡 ■喜望の家
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寄せ場・釜ヶ崎の労働と生活
・釜ヶ崎の成り立ち
釜ヶ崎は、大阪市西成区の北側約0.7km2程の広さの地域をいいます。歴史的に見ると、釜ヶ崎の形成は、18世紀に現在の浪速区日本橋3丁目から5丁目にかけてあった「長町(名護町)」にまで遡るそうです。当時の江戸幕府−大阪町奉行所は、「長町(名護町)」に、当時農村から逃散して都市に流入していた野宿者を取り締まる目的もあって、政策的に木賃宿を集中させていました。そして、この「長町(名護町)」には、当時の大阪における産業の中で、「だいたい油絞りと米搗きと酒屋の仕事、それと倉庫と船積の仲士」などの労働、あるいは様々な雑業に従事する人々が居住していたといわれています。
1885年以降、何度か「長町(名護町)」の移転・取り払いが計画されますが、1903年(明治36年)「第5回内国勧業博覧会」が大阪・今宮で開催されることとなり、天皇の通り道にあたる「長町(名護町)」は、西成郡今宮村字釜ヶ崎に強制移転させられました。これが現在の寄せ場・釜ヶ崎のはじまりといわれています。 釜ヶ崎という地名は、1922年に町名変更でなくなりましたが、通称として釜ヶ崎という名前は残りました。 当時の釜ヶ崎には、木賃宿の他に長屋も多く、「当時の主要な力役型労働」である「仲士、土方そして運輸に不可欠な先曳き」などに従事する日雇い労働者の世帯主と家族が生活していたといいます。 1910年以降は、「子どものいる世帯持ち」だけでなく、「青壮年層を中心とした単身労働者」が増えていきます。
第二次世界大戦後、釜ヶ崎は、再度寄せ場として形成されていきます。それでも1955年頃までは、家族持ちも多く、女性の比率も高かったようです。1960年代高度経済成長期に、炭坑の閉山等の理由から大量に労働者が釜ヶ崎に流入、このころから男性の単身者が増え始めたといわれています。当初は労働者は、港湾労働や造船などの職種にも従事していましたが、1970年に万国博覧会が大阪で開催されることが決定してから、建設・土木関係の仕事が急増しました。それに伴い釜ヶ崎の労働者人口も増加しています。当時で約30,000人ともいわれていました。
2019年現在は、不況などの影響から、約5,000人の日雇い労働者が生活しているといわれています。釜ヶ崎は戦前から戦後にかけて、いわば日本の産業構造の中で「労働市場」としての「機能」を果たしてきたわけです。
・喜望の家の沿革と概要
喜望の家の活動は、1976年に遡ります。ドイツ・ブラウンシュヴァイク福音ルーテル領邦教会から派遣されたE・ストローム宣教師は、1963年に釜ヶ崎で活動を始め、1973年頃から釜ヶ崎のアルコール問題とかかわるようになりました。1975年に断酒サークル「むすび会」が始まり、翌年の喜望の家の開設にいたりました。そして、1977年からは日本福音ルーテル教会より邦人牧師が派遣されています。1982年、ストローム宣教師が引退帰国されると、1986年からはドイツ・ブラウンシュヴァイクにあるルーカス・ヴェルク事業団より、アルコール依存症に関するソーシャル・セラピストのB・ワルター氏が派遣されました。(1992年に帰国)。それまでは、喜望の家のアルコール問題への対応は、「むすび会」の活動が中心でしたが、様々な試行錯誤を経て、1988年以降は、ルーカス・ヴェルク事業団でおこなわれているセラピー・プログラムをモデルとして、「回復プログラム」が始まり、現在に至っています。
従来、喜望の家では以下の4点を活動の中心に置いてきました。
@アルコール/ギャンブル依存症からの回復の手伝い
(回復プログラム/セラピー)
Aアルコール/ギャンブル依存症者の寄り場(居場所)
B生活相談と生活保護申請の手伝い
C釜ヶ崎キリスト教協友会との協同の活動(越冬夜回り他)
現在、喜望の家では特に、今の社会保障制度や医療制度では適切なリハビリテーションを受ける可能性を持つことができない日雇い労働者・野宿生活者の方々を対象に、通所による「回復プログラム」を活動の中心に、釜ヶ崎地域全体の活動に取り組んでいます。
宗教法人のため、教会からの牧師給与や釜ヶ崎キリスト教協友会からの自立生活支援プログラム費用の一部支援を除いては、職員の給与から活動費に至る運営のための費用は、ほぼ全て献金・寄付金でまかなっています。また、宗教法人として活動の一環ですから、利用者本人への行政による助成金は、制度的にもありません。